輪島の未来を拓く人たち#3「輪島の海の向こうとこちらに広がる景色」 

日本海に沈む夕陽を、道路脇からスマートフォンで撮影するしゃかいか!取材メンバー
水平線に沈む夕陽と、シルエットになった岩場の海岸

輪島に到着した日。宿に向かう途中で車を停めて、日本海に沈む夕陽をみんなで眺めました。振り返ると、駐車場の向こうに広がる木造の家々は、どれも黒瓦。海風にさらされて沈んだ色合いの板壁と共に統一感のある集落の様子に惹かれました。

それが輪島ツアー最終日に訪れることになっていた「黒島重要伝統的建造物群保存地区」だったとは。

高台から見下ろす黒島地区。黒瓦の家並みの間に、シートで覆われた倒壊家屋が見える
格子戸と板壁、黒瓦の屋根をもつ黒島地区の伝統的な木造家屋
「黒島かぞく會舘」の格子戸の前に立つ、黒沢卓夫さんご夫妻

朝9時半。「かぞく會舘」で私たちを迎えてくれたのは黒沢卓夫さん、恵三子さんご夫妻。

この地域の景観と文化を学び、未来に伝えていく「黒島みらい会議」を運営しています。

屋外で参加者に黒島地区について説明する黒沢卓夫さん

海外での建設事業に長く携わったのち、50歳を機に早期退職した卓夫さん。これからは日本の良いところを海外から訪れる人にもっと知ってもらう仕事をしていきたい、そんな思いで日本各地を訪ね歩くうちに、この日本海に面する黒島地区に辿り着いたそうです。

この地域を初めて訪れた時の感想は「とにかく誰もいない。人通りがなくて静か。なのに街の景観が整っている」だそうです。

それは、70~80代の住民が多く、昼間は家の中で静かに過ごしていることが多いから。

かといって、訪ねていけば快く受け入れてくれ、海外の文化にも興味津々。話し言葉も上品。

板壁の家々に挟まれた、黒島地区の細い路地

響きわたる鳥のさえずりが、白昼夢を見ているような感覚にさせるこの街で、地元の人との交流を重ねるうち、この土地の不思議な魅力のとりこになってしまったのです。

「黒島かぞく會舘」の座敷で、地図を映しながら黒島の成り立ちを説明する様子

能登半島の西側。南北の距離はたった1.5㎞ほどのこの地域に、黒沢夫妻が日本中どころか海外でも見たことのない独特な景色と文化が凝縮して残っていると言います。

石段の上から望む日本海と黒島の家並み。屋根にはブルーシートが残る

さて、この地域の特異性を理解するのに、キーワードとなるのが「北前船」だそう。

「ここ一帯は、北前船の船主さんの集落だったんですね。江戸時代中頃に北前船が始まる前は、半農半漁の、本当に小さな漁村だったんです。それが北前船が行き来するようになり、北海道や大阪などと交易するようになり、莫大な富がもたらされます。」

交易で得られた財産は土地や金融の運用にも活用され、地域の経済的発展に結びつきます。そのころ蓄えられたものが、のちにこの地域の経済的かつ文化的基盤となるのです。

交易の重要基点であったからか、徳川幕府が直接治める「天領」にも指定されます。

能登半島の先端に位置していながら、幕府と直接のつながりをもち、日本各地の最新の流行などの情報がいち早く届くのも黒島地区だったのです。

「黒島かぞく會舘」のテーブルに広げられた、黒島の古い写真の数々

「黒島かぞく會舘」では、当時の写真や資料などに触れることができます。

特に目を引くのが夏に行われる「天領祭」に傾けられる住民の情熱…!

2日間にわたって大いに着飾った人が街を練り歩き、京都さながらに曳山も巡行されます。

わずか1平方キロメートルにも満たない集落に、人口は約2000人。

その中に割に合わない数の呉服屋さんや床屋さん、美容院、旅館そして銀行までが軒を並べていたとのこと。

北前船での交易が始まったことで、地域の産業の柱が、半農半漁から金融・サービス業に大きく切り替わったことが分かります。

そして戦後の高度成長期。日本の造船業が盛んになると、もともと海上の暮らしへの親しみがあった黒島地区のこと、日本郵船や商船などに大勢就職します。

ここでも黒島地区と中央とのつながりは保たれているという訳です。

20世紀中頃の集合写真。西洋風の内装の室内に、着飾った人々が集う

20世紀中頃の写真。西洋風の内装と装いから豊かな暮らしが見て取れます。革のジャケットもお洒落…!

いま黒島地区に戻ってきて暮らしている方々は、概ねその頃海外の航路などに出かけて世界中の文化に触れてきた船員さんが多いのだそう。

年齢的には平均80歳くらいですが、いわゆる「よそもの」である黒沢夫妻が訪ねていっても、自然な対応をしてくれたのは、ご自身も海外や都会の港に勤務して、異文化に触れることに慣れているからなのでした。

とはいえ、次の世代の多くは都会に出て就職しているため、住民の高齢化が急速に進んでいます。

「陸路での移動が主な交通手段となった現在では不便な場所ですからね。でも、だからこそ、残っているのがこの景観と文化だと思うんです。この伝統文化と自然が融合した景色は世界を見ても他にないので、少しずつ海外の人にも訪れてもらいたいな、と思いますね」

緑のシートで覆われた倒壊家屋と、道路に置かれた三角コーン
板壁と黒瓦の家並みが続く、黒島地区の通り

魅力的な黒島地区の景観も、2024年の地震の影響は免れませんでした。

解体するか、修復するかの判断も、重要伝統的建造物群保存地区だからこその難しさがあります。

「ほかの地域もそうですけど、公費で解体できるので、放っておけば全部解体されてしまうんです」

子供や孫の世代が維持してきた非住居物件などは、これを機会に、と解体されている例が市内でも多くあります。

黒島では、伝統的建造物であるがゆえに、修繕には伝統的工法の知識のある職人が求められるのが、よりハードルを高くします。それでも、行政からの補助などを受けながら直してもらう道があることを、地道に伝える活動をしています。

「一軒一軒事情が違うので、相談に乗りながら。大工さんや専門家の方に入ってもらってですね。こういう風にすれば直りますよ、という提案をしています。」その結果、伝統工法にのっとった新築や修繕などの方向に舵を切った家屋もあります。さらには震災をきっかけにUターンして帰ってくる世代も増え始めました。

とはいえ、公費解体がほぼ完了した現在、空き地が目立つようになったのも否めません。

重要伝統的建造物群保存地区として、黒島が今後どういった活動をしていくか、岐路に立たされています。

「震災後の4月に黒島みらい会議を発足しました。自主的に住民が集まって、この先のイメージをみんなで共有しながら、今の課題を解決していきましょう、と話しました。黒島らしく…つまり歴史と文化を大切にしながら、今後も維持・存続できる新しい価値観を探るための活動です。」

運営事業は黒沢夫妻始め移住者が中心だそうですが、役員の半分は地元の人に入ってもらい、地域の住民は誰もが出入り自由な会議。

「将来的には、作家さんや職人さん、芸術家の方たちなど、これからの街をつくっていく人たちにも住んでもらいたいな、という話もしています。」

手作りの紙面「黒島未来新聞」。大きめの文字で黒島の近況が伝えられている

活動の一環である「黒島未来新聞」はSNSなどの情報が届かない、二次避難をしているお年寄りの方などに向けて発行されています。文字も大きめで、読みやすいです。

「いかに今の情報を伝えて、黒島とのつながりと、帰還へのモチベーションを保ってもらうか、そこを重点的に考えてやっています」

松林の間から、地震で隆起した海岸線を眺める一行

地震の影響で、海岸線にも大きな変化がありました。

海底にあった白い岩が隆起して現れているところも。

「これはこれで、新しく生まれ変わった地球のエネルギーを感じられるんですよね」と恵三子さん。

「自然が作り出した新しい景観ということで、これも大事にしていきたいなと思っています。」とは卓夫さん。

高台から集落を指し示しながら話す黒沢卓夫さん

「夕日が沈むときは町全体が黄金色に輝くんですよ。」

眩しいほどの看板や次々に情報を投げ込んでくる広告…目や耳から入ってくる刺激に疲れた現代人の脳みそが、しっとり癒されました

***

次の目的地は輪島市白米(しろよね)町という美味しそうな地名。

日本海に向かって斜面を覆う、白米千枚田の棚田

日本海に面して、小さな田んぼが連なりながら海岸まで続く様子に、思わず写真を撮りたくなる名勝地、「白米千枚田」です。

案内してくださったのはこの千枚田と、その歴史や文化を守り継ぐ活動をしている一般社団法人白米千枚田愛耕会の堂下真紀子さん。

白米千枚田を案内する、一般社団法人白米千枚田愛耕会の堂下真紀子さん

もともとこの地域で育った堂下さんですが、10代の頃は特に興味を向けることもなかったそう。転機は金沢のテレビ局でディレクターを務めていて、この千枚田を取材しに訪れたとき。改めてその景色と守られてきた文化、人々の日々の暮らしに感動し、通い詰めるように。ニュース性や新しいものを追いかけるメディアとは真逆の世界に、惹かれたのでした。

「毎日田んぼで仕事するおじいちゃんこそすごい。私もそれをやっていきたい」と、Uターンを決意したのが6年前のこと。

水を張った棚田を背に、説明用のボードを手に話す堂下真紀子さん

ぱっと見渡せるほどですが、数えると1004枚もの田んぼがあるそうです。「全部で4ヘクタールの土地なのですが、そのうちの2ヘクタールが土手や畔なんですよ。なので普段の作業も草取りだったり畔の整理だったり、お米を作っている、というよりは田んぼのお世話をしている感覚が強いです」と笑いながら堂下さん。

いかにも米どころ、といった地名とは裏腹に、稲作には向いていない土地なのでは…?

「能登は昔から土地貧乏と言われていて。目の前は海だし、背中には山だし。耕作できる平らな土地が限られていたんですよね。この斜面に少しでも多くのお米を育てたい、という昔の人の執念が、小さな田んぼをこれだけ作ったんだと思います」

地震と豪雨で大きく崩れた、棚田上部の斜面

明治初期には今の8倍、8000枚の田んぼが山の向こうまで連なっていたそう。どれも小さな田んぼなので機械の入る余地もなく、ほぼ手作業で行います。その大変さ、そして高齢化から、千枚田の担い手がどんどん減ってきた時に誕生したのが堂下さんも所属する「白米千枚田愛耕会」です。

「人の手を借りないとできない農業では、みんなで協力し合うことが効率よくこなす鍵で、昔ながらの農法とか、知恵が残っているんです。ベテランのおじいちゃんたちがすごい技術を持っていて。それらが残ったのも、不便な土地だからですね。」

例えば稲刈り。刈りたての稲は水分を含んでいて重いので、みんなで刈り取った後は田んぼの畔に置いて乾かしておきます。午後になって、乾いた稲をまたみんなで協力して運ぶというのが効率よくこなす知恵。

その日行われていた畔塗りという作業も、傍目にはさらりと泥をすくって畔にかけているだけ…ですが「これが素人だったら、まず泥をすくいあげるだけで苦労しますね」とのこと。その技術や知恵の継承が認められ、2011年に日本初の世界農業遺産に認定されました。

海を指しながら千枚田の成り立ちを説明する堂下さんと、聞き入る参加者

もともと担い手不足の危機にあった千枚田にさらなる試練となったのが2024年の地震、そして豪雨です。棚田の中心部が大きく崩れ、20枚ほどが無くなってしまう事態に。その他の田んぼも不均平になったり、ひびが入って水が漏れるようになったりで、稲作も不可能に。それからは1枚1枚の田んぼと地道に向き合う修復作業が始まりました。

石を積み直して修復が進む棚田。土がむき出しの区画が残る

もともと地滑りの多い地域だったとのこと。崩れては直す、という作業は、400年ほど前から守られてきたこの景色と共にあります。

直す時には、元の形に戻そうとするのではなく、新しくできた地形に沿って新たに田んぼを形成する、というのが昔ながらのアプローチ。自然の流れに抗わないのです。

「自然の都合に合わせて人間がつくる、という柔軟さが、能登らしさだと思います。」

地道な作業の結果、2026年8月の段階で600枚の田んぼの修復が完了したそうです!

田んぼに水を引く水路に、しゃがんで手を伸ばして確かめる堂下さん

今も、朝晩の見回りは欠かせません。天気の様子を伺いながら、1枚1枚の田んぼを見回ります。「穴があいて水漏れしていないかな?とか。明日雨降るから、この田んぼと田んぼの間をつなぐ水戸(水の流れる水路)の仕切りを下げておこう、とか。」

水を張った小さな棚田と、細く曲がりくねった畦

山の渓流の水を田んぼに引き込む仕組みになっています。が、最初の田んぼではなぜが周りを半周してから流れ込むように水路が作られています。

「田んぼの水温に近づけてから中に入るよう工夫されているんです。沢の水は冷たすぎるので、『苗が風邪をひく』って、地元の人はよく言いますね」

こんな風に手をかければ、愛着がわくのも自然なこと。もはや生き物を飼っている感覚ですね!

「旅行先でも、『雨降らないかな?』とそわそわしちゃいます」と堂下さんもうなずきます。

海に向かって広がる棚田と一本の松。手前で撮影する参加者

愛情たっぷりに育てられた白米千枚田。輪島を訪れたらぜひここで夕陽を眺めてほしいです。

手書きとイラストで作られた「白米千枚田あぜ道便り」。棚田の修復状況が図解されている

そして堂下さんの人柄がそのまま伝わる「白米千枚田あぜ道便り」もとってもおすすめ。

黒島地区の「黒島未来新聞」同様、紙だからこそ届くこと、もの、心があるんですね。

白米千枚田の畦で手を振る取材メンバー

――最後に

隆起した岩が並ぶ鴨が浦の海岸と、深い青の日本海

今回訪れた先々では未来を見据えた挑戦や再生が話の中心でした。それでも2024年の地震、追い打ちをかけるようにあった水害、更には2017年の地震にも、話は及びました。

3‐4世帯で一つ屋根の下緊急避難したこと。朝は水汲みから始まり、夕方には親戚同士酒盛りが始まる非日常の日々。生活用水(とくにトイレ!)が手に入らない時にどうやってやり過ごすかの工夫。その頃の話を少し懐かしそうに話せる人もいれば、なかなか口にすることのできない人がいることも想像がつきます。

その当時の記憶がそのまま残る場所に、最後に訪れることができました。

飛行機の時間を気にしながら、四十沢夫妻が連れてきてくれたのは鴨が浦。地元の人は短くして「カモウラ」と呼びます。

そこでは、地震で隆起した地形と土砂崩れの跡が荒々しいほどに残っていました。

土砂崩れでふさがれた遊歩道の先に見えるトンネル

土砂崩れでふさがってしまったトンネルを、かつて海底だった地面を歩きながら目指します。月面はこんな感じかな?なんて想像してしまいます。

波に削られた跡が残る、隆起した白い岩壁
かつて海底だった岩場を歩く、四十沢葉子さんと参加者

「輪島塗に必要な地の粉だって、地震で隆起した地層から採れた土なんですよ」と葉子さん。

輪島塗に欠かせない材料は、地震のお陰で手に入るのですね。

この地域の人は「地震と共に生きている」と葉子さんは言い切ります。

崩れては直すことを繰り返してきた千枚田もそうです。崩れては修復してきた知恵の蓄積があるからこそ、前を向くことができる。

桐本さんの目に宿った光も思い出します。

こぼれ話ですが、今回出会った皆さん、四十沢夫妻始め、とにかく夫婦仲が良い!というのが印象でした。夫婦二人三脚で家業を営むものづくりの世界ではよく見かける景色ではあるのですが、それにしても…。一緒にものづくりをするだけでなく、乗り越えてきたもの、そこから見据える未来への目線を共有できているからではないかな?と推測します。

(蔵田さん、四十沢さん、黒沢さんご夫婦の写真…?など?)

地震も自然の一部として、共に生きてきた輪島から、いままた新たなかたちが生まれつつあります。私たちは、そのエネルギーに触れる機会を頂いたのでした。

ありがとうございました!

鴨が浦の岩場に並んだ、しゃかいか!取材メンバーの集合写真

シリーズ「輪島の未来を拓く人たち」

(text:吉澤朋、photo:市岡祐次郎、篠原豪太)

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