手ぬぐい産地の世代代表が語る手ぬぐい産地のお話
「にじゆら」×「hirali」トークショーレポート

手ぬぐいイメージ

みなさん、手ぬぐってますかー?
いよいよ本格的な夏がやってきました。
たくさん汗をかいたら水分と塩分の補給、そして汗を拭くことをお忘れなく。

手ぬぐいは、さらさらとした手触りなのに吸水性が良く水に濡らしても絞ったらすぐ乾くし、たたんでもかさばらない。首に巻いてストール風にしたり風呂敷のように包んで使ったり、夏だけでなく年間を通して使う人も増えているなど、最近再評価されています。

ということで今日は、そんな手ぬぐいについて語らう「にじゆら」×「hirali」トークショーの会場に来ております。

会場

トークを繰り広げるのは、この二人、にじみとゆらぎで独特の風合いが楽しめる「にじゆら」を生み出したナカニ代表の中尾雄二さんと、リバーシブルが人気の手ぬぐい「hirali(ひらり)」のブランド代表寺田尚志さん。

プロフィール画像

中尾雄二さん

1958年大阪府高石市生まれ。50年以上続く手ぬぐい浴衣などの染工場
「株式会社ナカニ」の二代目。1976年神戸商科大学卒業後、松下電器(現パナソニック)に入社。2008年、多くの作家とのコラボや独自の企画によるファクトリーブランド「にじゆら」を立ち上げ、現在は5つの直営店を展開中。注染の実演や手ぬぐい体操を通じて手ぬぐいの魅力を発信し続ける。

プロフィール画像

寺田尚志さん

1979年大阪府堺生まれ。2001年桃山学院大学卒業。先代の急逝後、勤めていた旅行会社を退職、家業である竹野染工を継ぐ。2017年、伝統色の組み合わせ「重ねの色目」と独自の両面染色技術を掛け合わせたブランド「hirali(ひらり)」を展開。現在は手ぬぐいの他、ストールなどさまざまな商品づくりに挑戦し手ぬぐいの新しい価値を生み出している。

お二人の工場は、大阪府堺市にあります。そう、ユネスコの世界文化遺産に百舌鳥古墳群が登録されたことで最近話題になったあの堺市です。実はこの堺市は古墳だけではなくて、糸から和晒、染工場、織り屋そして問屋が集積する日本随一の手ぬぐいの産地でもあるんですよ。工場どうしが歩いて数分というご近所さん、そして同じ手ぬぐいを生業とするお二人がどんなお話を聞かせてくれるのでしょうか。とても楽しみです。

会場_イメージ space_r_外観

会場は兵庫県芦屋市のスペースRさん。1Fにはおしゃれなオープンカフェ、2Fと3Fにはショップとイベントスペースがあり、おじゃました7月の中旬には、手ぬぐいや夏の小物たちがたくさん展示・販売されていました。

にじゆら_代表アイテム にじゆら_花束

手ぬぐいがブーケになってる。

hirali_オンパレ hirali_傘

hiraliの手ぬぐい日傘。裏と表が違う色になるhiraliの特徴がいかされています。

お店の中を楽しんだあとは、いよいよトークショー!!

(中尾)
寺田さんはうちの息子も参加させていただいている、堺の手ぬぐい業者の次の世代のグループで、色々と盛り上げる活動をやってもらっているんですけど、今日は寺田さんから、どうしてhiraliを仕上げたのか、その熱い思いを私も聞かせていただきたいなと思います。

(寺田)
うちはロール捺染という技法を70年近く専門でやってきたんですけど、なかなか時代にそぐわない染め方だなと前々から感じていました。熱い工場の中で、一生懸命作っているのにロール捺染の価値を一般の方に見出されていないし、自分たち自身もなかなかその技法や商品が価値あるものだと思えませんでした。そのへんが自分の中で前々から歯がゆかったんですが、その歯がゆさを打破するために商品化して、自分に対する職業の自信といいますか、職人も自分がやっていることへの自信を持ってもらいたいために、ブランド化を進めました。

寺田さん_遠くをみる

織物、晒し工場、染工場の集積している堺を、産地全体で発信していかなければいけないことに気づきました
(寺田)
ロール捺染をしている周りの工場が次々と廃業していく中で、このままだったらいつか弊社も廃業の道を辿るということも、自分で感じていました。そこで、なんとか価値ある商品を作らないといけない、ということでブランドを立ち上げたのが最初だったんですが、ブランドを立ち上げた当時は、何とか自分たちのロール捺染を認知してもらわないといけない、という思いで走っていました。その後、ブランドを立ち上げて2年ほど経った頃、ロール捺染だけを発信してもアカンなということに気づいてきました。

たとえ、自社だけが価値あるのだと認められたとしても、これは一瞬のもの。その場限りの打開策でしかなくて、やはり根本的に変えないといけない。堺市というのは全国で唯一、織物、晒し工場、染工場、それを売っていただける販売する商社さん、メーカーが集積しています。それらが固まっているのが唯一全国で堺市だけなんですけど、そこを救うためにはロール捺染だけどか注染だけではなくて、産地全体を発信していかないといけないと気づきました。

ここ、まだ一年くらいですけどそういう思いで自社のブランドだけではなく、産地を発信ということを意識してやっています。産地がもし救われたならば、必然的にロール捺染、注染などの染屋、晒、織物も必然的に救えるのではないかと思い、仲間とともに夏にやる手ぬぐいのお祭りである「手ぬぐいフェス」というものを、産地を救う打開策のまず第一弾としてやっています。

(中尾)
私たちも同じなんですよね。にじゆらは11年になるんですけど、自社だけでは絶対ダメなんです。染め屋はもちろん、その手前の晒や織り屋さんといった生地も。国産で織ってくれる生地屋さんが特に後継者がいなくてどんどん減ってしまっています。私ところも立ち上げ当初は、誰もいない、若い職人がいないという状況でした。そこで私も気がついたのは、まず自社のことを何とかしよう、続けられるようにと進めていても、ダメだ。そんなことを寺田さんが2年で気づいてるのは本当に素晴らしい。

にじゆら_image

(中尾)
しかし「自社だけ生き残ってもダメだ」ということは委託加工という仕事をやってると見えてこないんです。
彼がそういう気持ちになれたかというのは、私ちょっとだけ先輩なので言わせてもらいますけど、「本当に素敵ですね、注染手ぬぐい素敵ですね」って使ってくださるエンドユーザーの皆さんが教えてくれるんです。

しかし、委託加工をやっていると、職人がいいものを作っているという意識を持つことはできなくて、とにかく仕事をこなして納めればいいという、思いのままなんです。本当に自分たちの作る手ぬぐいでお客さんが喜んでもらっている、ということを感じることもできなかったんです。自分でブランドを持ってやっているとお客さんから直接そういう声が届きます。しかも、今作っているものは、いわゆる昔からの綿の相場、手ぬぐい、ハンカチの相場からすれば、やはり高いので決して安いとは言えないのに。

自分のところだけではこれから続けられないということが見えてくる
(中尾)
でも、自社ブランドをやりはじめて、お客さんがすごく褒めてくれたり喜んでくれたりして、お金を出してくれるということになる。それに思いをはせると責任感だって出てくる。そして、責任感が出てくれば、自分のところだけではこれから続けられないということが、当然見えてくるんですね。やはり晒屋さん整理屋さん織り屋さんっていうのを包括的にやらないといけない。

仮に85歳まで頑張らないといけないとしたら、まだ寺田さんは40歳ですね。あと45年続けられるようにするためには、目先のことだけを考えていたらダメですよね。そういう風に仲間たちとトータルで、って考えられるようになるとは、たいしたもんですわ。もう今日は何もいうことない(笑)。

中尾さん_笑顔

家業を継ぐ時に「やめておいた方がいい」ってみんなに言われたんです
(司会)
お二人の工場は歩いて2分くらいの距離だと思いますが、古くからのお知り合いなんですよね?

(中尾)
彼の先代の社長と仲良しでした、私は年下ですけど、仲良くさせていただいて。うちも捺染の機械があり兼業でやっていたので、捺染部というグループで一緒に飲み会をしたり旅行したり交流させていただいていました。

(寺田)
注染っていう染め方は砂を使うんですよね。糊を置いた上に引っ付かないように砂を使うんですけど、その砂場が中尾さんの工場の裏にあったんです。僕はその砂場でずっと遊んで育ちました。

寺田さん_笑顔

(中尾)
最初からこの業界に入るつもりだったの?

(寺田)
全くなかったですね。僕の場合は旅行が好きなので学生時代はバックパッカーをやってて、最初は旅行会社に就職したんです。
就職してからしばらくして、先代が急に亡くなってしまい誰も継がないってことになったんです。しかし、うちの初代の嫁にあたるおばあちゃんがすごい悲しそうな顔をしてたので。僕もやはり旅行というのは仕事にするより、趣味の方が楽しいな、っていう思いもあり、これを機に帰ってきたんですけれども…ただ、帰ってきたら、思ってたのとギャップがすごくて。
得意先にまず挨拶に行くと、みなさんに「やめておいた方がいい」って言われたんですよ。「君、こんな業界やめときなさい、旅行会社で働いていた方が絶対いいよ」ってみんなに言われて、大丈夫かなこれ、って思ったのが記憶に残っています。

(中尾)
もうまるっきり一緒やわ。
私の場合は、姉が亡くなってしまった。就職したパナソニックを辞めて、何の迷いもなく家業に入ったけど、みんなに言われましたね。「そんないいとこやめてこんな仕事するな」って。「こんな仕事」をしてるうちの親父にも言われた。あんただけには言われたくないって思ったね(笑)。確かに、そういう風に見られるっていう将来性のない業界でした。私がもう35年ほど前に入った時点で、うちの家じたいでそんなに手ぬぐいを使っていなかったし。やっぱりタオルが中心の生活になっていました。

二人_喋る

この手ぬぐいたち「いったいどこに使っているんだろう」
(中尾)
毎日、工場の中で毎日4~5万枚手ぬぐいを染めているんだけど「いったいどこに使っているんだろう」とずっと考えていた。そして、どこで一体使っているのかに興味が湧いてきた。どこでこの手ぬぐいが、どういう人が使っているのかを知りたくて、その探究心から営業先を回ってたりしました。親父に言わせると「何うろうろしてんねん!現場の仕事を覚えろ」って怒ってたけどね。東京へ出張した時には、90軒くらいNTTさんの電話帳を見ながらね、タオル屋さんを回ったの。
「手ぬぐいってどこで使われてるの」って興味を持ちながら、いろんな人に話を聞いたりを続けていたら、とてもじゃないけど、仕事が全然足りてないってことがわかってきた。

当時は時代が悪くなりすぎて、みんなと一緒に「ほんとこの先ないよな」って思っていました。百均や販促品なんていっぱい良いのが安くて出てきた中で、より手ぬぐいが必要とされなくなり、手ぬぐいは個人で使うものじゃなくて、お配り物、というレベルでどんどん仕事も減っていったし。経営者自体が「手ぬぐいや注染の将来がない」って問屋さんにも言われている時代、もうどうしようもないなと自信がないわけですよ、みんな。仕事に対してプライドが持てないって言うのが男としては、経営者として最低だなと思えてきました。それで自分でも製版をやら注染を覚え、スクリーンを導入したりいろんなことをやるようになりました。でも、そんな時代の中、そうだったからこそなのかもしれないけど「注染が実は価値あるもの」というのをその時にお客さんから教えてもらうこともあったんです。

自社ブランドを立ち上げた理由はプライドだった
(中尾)
そうして、「この状況を何とかしないといけないな」っていう思いが動機になって、にじゆらが生まれました。確かに切羽詰まってたこともあるけど、立ち上げた理由は何よりプライドだった。自分のやっている仕事に自信を持って、どうですか!って言いたかった。ものづくりしている人間なので「自分が生業としているその価値はやはりわかってもらいたい」っていう思いがあります。自分自身がそれを納得しないと。やはりパナソニックもやめて染め屋をやったわけなので、そういう自信を持ってやる一生の仕事でなければならない。経営者がそうでないと、働いている職人たちも当然、プライドが持てるわけがない。

そうこう続ける中、おかげさまで今は本当にびっくりするくらい、忙しくなっても生産量が追いつかないくらい。ブランドを立ち上げて本気で発信してると「働きたい」って若い人も突然増えてきました。人が来て工場が変わる、今いる人が変わる。そして、声かけしてくれる人も変わってくる、おつきあいの幅が変わってくる、視野が広がる。ブランドが長く残っていくということは本当に難しいし、いまだに業界全体は厳しい状況ですが、でも、ここで知恵を出して常に発信を続けていきたいと思います。

にじゆら_image

作っている人間がちゃんと「いいものです」って発信しないといけない
(寺田)
僕ブランドを立ち上げる前の4~5年前、確かふぐ食べながら雄二さんに言ったことがあると思うんですけど「あのにじゆらさんが成功しないと僕らにとって夢がない」と思っていました。にじゆらさんのファクトリーブランドで店を作るという、あのやり方を僕も後ろから見てて成功してもらわないといけない。にじゆらさんに何かあったら産地全体アカンようになるし、僕らも手のつけようがないから、絶対にじゆらさんには成功してもらわないと、というのが僕にはありました。

(中尾)
何が成功なのか、というのがあると思いますけど、情熱もってずっと続けられていることかな。

(寺田)
それは間違いないですね。
にじゆらさん注染がいいとかとhiraliのロール捺染がいいとか、シルクスクリーンがいいとかそんなんじゃなくって、本気でやってる職人は、全部が本物やと僕は思っているんですよ。もちろんにじゆらさんもいいし、hiraliもいいし、堺市に産地にあるものいいよね、って言われるような手ぬぐい業界にできたら。晒も和晒も良いっていうね。全体で協会にしていきたいな、っていうのはすごく思いますんで、にじゆらさんが勝ったとかhiraliが勝ったとか全くそんなことないんで、どっちもこれから業界を引っ張っていけたらいいな、っていうのは本心から思います。

(中尾)
勝ち負けの気持ちは大事かもだけど、何に勝つかっていうマトがたぶん今までと違うんですね。ちっちゃい中での戦いじゃなくて、やはりもう今は当然グローバルの視点が大切。日本の中でももっと発信しないといけないけど、同時に海外に向けての発信をするということもやはり大事なこと。ライバルは決して産地の中じゃない、っていうのは一緒やと思う。

産地でみんなで発展していくのには、まず作り手自身がちゃんと手ぬぐい持って、毎日ちゃんと使うことから。私らの同業者の注染屋さんでも、みんな手ぬぐいを持ってなかったりするわけです。委託加工の頃は私もそうでした。さっきも言った通りタオルやハンカチを使っていました。でもブランドを立ち上げて責任を持って販売するようになって、自分でそれっを使ってみて本当にいいということがわかったら、良さを伝えられるようになる。

中尾さん_シリアス顔4

最近、今日もそうですが、この手ぬぐいシャツを着て会社にいくと、以前は「社長今日は取材ですか」って聞かれてたんです。確かに実演をしたり、一昨日もテレビが入ってその時も着てましたけど、実はもう最近は普通に着てます。

この手ぬぐいのシャツは本当にいいんです。出張の時に、ホテルで自分で洗濯しても1時間あればすぐに乾くし。それやと思うんですよ。それは手ぬぐいの素材である晒も一緒で、真っ白な晒のハギレでいいから晒屋さんはハンカチ代わりに持ってないといけません。作っている立場から、もっと伝えないと!作っている人間がちゃんと「いいです」って発信するっていうのは、一番説得力があることなので。作っている人間がちゃんと責任を持って、皆さんにお伝えしていくしかないと思うんです。問屋さんは問屋さんで当然役割はありますけど、工場自ら発信していく。私らが責任持って発信していかないといけないな、と思いますね。

職人たちが自信を取り戻して、離職率が圧倒的に下がりました
(寺田)
うちもブランドを作って良かったと感じているところが、もちろん売り上げもあるんですけど、一番良かったのは工場の職人の自分の作る商品に対する自信が変わってきたということ。うちはもともと販促品ばかり作っていたんです。しかし、自分らが汗水垂らして作った商品が、無料で配布されていたり。中にはそれをもらった人がすぐに捨てちゃうような商品ばっかり。そんなことばかりやってなかなか自分らが作っているものに自信を持ってなかったんです。

しかし、ブランドを作って1,500円で一枚買ってもらえるようになって、例えばこういう芦屋の素敵なところに扱ってもらうことで、職人たちが喜ぶようになりましたし、離職率が圧倒的に下がりましたね。今では自分らが作っている商品がどこに置かれてるっていうのを職人が検索して見つけたりだとか。そんなことってうちの工場で全くなかったことで。今面接に来てくれる人たちはどんな仕事なんですか、どんな風に作っているんですか、とかをすごい聞いてくるんです。それがブランドを作って一番良かったことです。これはたぶんにじゆらさんも歩んできた道だと思うんですけど、自社製品を作ってみて僕らもやっとわかったことですね。

1Q2A4377

何を基準に考えてものを作っていくかを考えている
(中尾)
にじゆらスタートした頃、これまでの手ぬぐいが関東で900円くらいだったんですけど、にじゆらの場合、デザインと色々手間をかけるので1,300円でスタートしたんです。当時「これ1,300円で売るねん」って言ったら、うちの古い職人さんから「社長~、売れるわけないやん!」って言われました。「でも、うちでこれだけのもん作って、こんだけの手間かけてやるから」と言ったんやけど、なかなか1,300円で売ることを信じてくれない。

でね、手ぬぐいを実際に染めてて上がってくるのは、注染の場合は微妙な規格外というのができてしまうことがある。私が「これは規格外にしよう」って言った時に「そんなくらいええやん」て職人は言ってしまってたんですよ。
ところが2年ほど経ってにじゆらが売れるのを信じられるようになってきた頃には、規格外の染め上がりになってしまった時に、私はですよ「これいけるん違うか」と胸の内で思ってたんですけどね。ところがうちの職人は「これあかんやろ社長~」って。「えーっ」てビックリしましたね。職人に「1,500円で売ってんねんやろ、これは外に出したらアカンで」って言われてしまいました(笑)。
職人が本当に変わってくるのを目のあたりにしました。

ブランドがスタートした頃は「社長の道楽でやってる、社長がテレビ出たいためにやってる」って職人たちに言われてた。「テレビにたくさん出るのが好きなんでしょ、社長」みたいなこと言われてました。そんなこと言ってた職人たちが今はテレビの取材がきてレポートされてもちゃんと答えられるし、彼らの意識が確実に高くなってきているのを実感します。何かを変えることでその人の意識が変わってくるのがわかりました。

ナカニのみなさん

注染はほんとはこれまで分業制だったんですけど、「もっともっと高い意識で責任感のある職人になってほしい」という思いで、現在は6割くらいの職人が一人で染められる体制になっています。この結果生産量は間違いなく落ちてしまうんですけど、両方やらないと一人前にならないし責任感も育たない。でも、その生まれた責任感というのが、自分の作品の価値へとつながっていきます。

何を基準に考えてものを作っていくかを考えてるってことだと思いますが、寺田さんは何を基準に考えていますか?誰に向けてなのか、お金儲けなのか、とかいろんなことがあると思いますが?

(寺田)
それこそ、僕この業界に入って14~15年前ははじめはお金儲けだけのために仕事をしたんですよね。自社がどうやったら忙しくなるか。自社さえ良ければいい、そんな周りを見る余裕もないし。
仕事を取ってきても。本当にそこで自分が幸せと感じられなかったんですよ。「ずっと一生、こんなふうに周りの工場とかと競争して一生勝ち続けないといけないのかな。こんなこと続けてまずしんどいし、あまり幸せではないな」って考えていました。

「誰もが認める手ぬぐいの産地になる」という目的に向かって
ブランドを作ったから気づいたんですけど、やはり産地みんなで勝ってこそ、自分もやりがいがあるだろうし、そんな毎日毎日周りの工場を敵視して戦わなくてもいいし、というところに気がつきましたね。

(中尾)
一緒一緒!私が20年かかったというところを、寺田さんは14年でわかったのはすごいこと!
寺田さんは、手ぬぐいの第三世代目くらいなのかな。盛り上げてくれることを大いに期待しています。

(寺田)
堺市が誰もが認める手ぬぐい日本一の産地になるという目的に向かって、hiraliもですけど、手ぬぐいフェスをはじめ盛り上げていきたいと思います。

記念写真

手ぬぐい大好きおっちゃんであるお二人の軽妙な掛け合いがとっても楽しいトークショーでした。
手ぬぐいの産地の中で競争するのではなく、染工場、晒や糸、機屋さんみんなで一緒に成長し、地域全体で新しい価値を生み出し続ける、手ぬぐいの産地堺を盛り上げていこうや!という熱い思いがビシビシと伝わってくる時間でした。

僕もこの夏は素敵な手ぬぐいでいろいろ楽しんでみたいと思います。
日本の夏、手ぬぐいの夏♪
みなさんもよい手ぬぐいライフを!

竹野染工さんの工場見学も読んでみてくださいね。

株式会社 ナカニ

住所:大阪府堺市中区毛穴町338-6
電話番号:072-271-1294
株式会社 ナカニ URL: http://nakani.co.jp/
にじゆら URL: https://nijiyura.com/

竹野染工株式会社

住所:大阪府堺市中区毛穴町355-3
電話番号:072-274-1900
竹野染工 URL: http://takenosenko.jp/
hirali(ひらり) URL: http://takenosenko.jp/hirali/

会場 スペースR

住所:兵庫県芦屋市茶屋之町1-12
電話番号:0797-38-2949
URL: http://www.ryu-ryu.com

(text、photo:西村 ※一部の写真はナカニさん、竹野染工さん、スペースRさん提供)

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