中尊寺金色堂から秀衡塗そして、うるしびとと出会う旅〜
「漆の国いわて産地取材ツアー」レポート前編

秀衡塗イメージ

みちのく岩手は、知る人ぞ知る漆の国。
岩手県北部にある二戸市浄法寺は、国産漆の約7割の生産量と高い品質を誇る「浄法寺漆(じょうぼうじうるし)」の産地。「知る人ぞ知る」と書いたのは、岩手県が漆器やその原料となる漆の産地であることは、漆器職人や販売など漆器を生業にしている人を除く一般の人には、あまり知られていないからです。
今日はそんな「実は漆の国」である岩手県が全国に向けて、漆器等の魅力を知ってもらおうと計画された「漆の国いわて産地取材ツアー」に参加し、岩手県と漆の関係やあんなこともこんなこともレポートしたいと思います!

一ノ関駅出発

岩手県の南端の一ノ関から出発し、ゴールは漆の産地である二戸市浄法寺。北海道に次いで2番目に広い面積の岩手県を、バスで縦断する一泊二日の漆を学ぶ旅がはじまりました。

ツアー看板 取材者たち

今日のツアーガイドを務めてくださるみなさん。左からIGRいわて銀河鉄道株式会社の有坂さん、岩手県産業経済交流課、地域産業担当の佐々木さん、株式会社ジェイアール東日本企画の高橋さん、株式会社エディションズの金谷克己さんです。2日間よろしくお願いします!

センター入り口

平泉といえば中尊寺の金色堂。でも、漆と一体どんな関係が!
最初の見学先である「平泉文化遺産センター」に到着しました。こちらは2011年に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」として、世界文化遺産リストに登録された、構成遺産である中尊寺と毛越寺の中間にあるガイダンス施設です。中尊寺や毛越寺に行く前に見ておくと、その歴史や背景や文化的な価値などわかりやすく理解することができます。

文化遺産センターエントランス 菅原さん

平泉文化遺産センター文化財調査員の菅原計二さんです。中尊寺大池跡や柳之御所の遺跡の発掘調査に参加し、貴重な出土品を数多く見つけた実績の持ち主!

まずはこの平泉の地理と歴史について勉強します。
平泉は、陸奥国の入り口になる白河の関(いまの福島県白河市)と北限である青森県の外ヶ浜のほぼ中間点にあります。かつては京の朝廷に服属しなかった蝦夷と呼ばれた人々が生活していましたが、平安時代はじめころ坂上田村麻呂の遠征によって京の朝廷の支配下におかれることになります。しかし、その後、前九年・後三年の両合戦を経て、安倍氏や清原氏のあとに支配を確立した奥州藤原氏によって独立した国のような存在になり、平泉はその都になります。「栄えた」というのは、付近で産出される黄金や、北上川を利用した水運、北方やはるか東アジアとの交易により経済的に豊かになったことのほかにも、優れた文化が発展したという側面もあります。

平泉の地理条件

奥州藤原氏の都として平泉が栄えた時期は、京都で浄土思想が広がった時期と重なります。経済的な交易によって、信仰とともに都から経文や仏像や仏具などさまざまな文物が流れ込み、ここ平泉の風土と混じり合って生まれたものが「平泉文化」と呼ばれ、その後約100年間続くことになります。

清衡 展示品

中尊寺の南東に位置する「柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)」は、奥州藤原氏の本拠地と考えられており、さまざまな遺物が出土しています。

わっぱ 烏帽子

武士が正装として被っていた烏帽子、この他にも櫛や化粧道具なども出土しています。

お盆

漆塗りのお盆も発掘されました。手前の二つが出土した漆器の皮膜で、奥がそれを元に復元されたものです。

菅原さん

お盆の木地部分は木質なので完全になくなってしまいましたが、漆の部分は残っています。漆は他の材質のものに比べ、水に強い、つまり腐食しにくいため保存状態が良好なことが多く、遺跡からも見つかりやすいのだそうです。

金銀蒔絵鏡箱

こちらは菅原さんが20数年前に発見した漆器の鏡箱。現在は表面の金が剥げ落ちてしまっていますが、美しい金銀の蒔絵細工が施され、当時から高度な技法があったと考えられています。平泉の遺跡からは漆器のほか、工房の跡も発見されています。さまざまな出土品は都からもたらされただけではなく、この地域に住む人々の手によって作られたものも多いと考えられています。

柳之御所遺跡が発見されたきっかけは、北上川の洪水を防ぐ堤防を兼ねた「平泉バイパス」の建設工事でした。平泉町内を走る国道4号線の渋滞解消のための迂回路として期待されていたバイパスの建設の調査の際に、たくさんの貴重な出土品が見つかったため、バイパスのルートを変更し柳之御所遺跡を保存したのだとか。京都や奈良といった遺跡の多いかつての都では今でも建物の建設工事の際に発掘調査をすると何らかの出土品が発見されることが多いようですが、東北地方でこのようなかたちで遺跡が保存されることは非常に珍しいケースで、この遺跡保存は、建設省(現在の国交相)の「英断」と言われています。

中尊寺のハス

「中尊寺ハス」の実物も展示されています。ハスは透明なアクリル樹脂で保存処理されています。
1950年に行われた中尊寺金色堂の調査で、奥州藤原氏最後の当主である藤原泰衡の首桶から発見された古代ハスの種を、ハスの研究者である長島時子さん(恵泉女学園短期大学名誉教授)が開花させ「中尊寺ハス」と名付けられました。約800年を経て現在によみがえり、今では中尊寺の参道近くの池に美しい花を咲かせています。

平泉で有名なものがもう一つ。

松尾芭蕉

それがこの人。「夏草や 兵どもが 夢の跡」と、かつて栄えた平泉への思いを歌に読み込んだ松尾芭蕉が訪れた場所としても、平泉は有名です。

この歌のように、往時極めた栄華も藤原氏滅亡後の戦乱や野火で焼け跡となってしまった平泉。
当時の華やかな生活を偲ぶ遺物も発見されないだろう、と考えられていましたが、たくさんの人々の調査や研究の結果、貴重な発見につながり世界文化遺産に登録。800年以上の時を経て再び多くの人々が訪れる場所になりました。

平泉の風景 もち御膳イメージ

はるかな昔に想いを馳せても、おなかはすくもの。
ということで、平泉文化遺産センターを後にして、お昼ごはん。
やってきたのは「平泉レストハウス」です。

レストハウス外観

ここでいただくごちそうはもう一つの世界遺産「和食」。
お餅の御膳「もち本膳」です。
なぜお餅が世界遺産の無形文化遺産「和食」の一つなのか、この方にお話を聞きます。

安倍一族さん

平泉レストハウス営業課長の安倍一族(かずひろ)さん。「いちぞく」と読むと、奥州藤原氏の前の前の東北の覇者安倍氏を思い出します。きっと何度も尋ねられたことでしょう。

昼食イメージ

現在の平泉町一関市などの岩手県南部は「餅」が伝統食でした。
平泉がある地域は、北上川下流でおいしいお米がたくさんとれる豊かな米どころ、なんと年に60日も餅をついて食べるほどお餅LOVEな地域です。その食べ方は、餡やお雑煮などなど、それぞれの土地の名産や季節の食材を使った食べ方を含めると、300種類以上にも及ぶと言われています。ちなみにお隣の宮城県のお土産でおなじみ、ずんだ餅もこの餅食べ方バリエーションの一つ。ここ平泉のある岩手県の県南部は江戸期を通して伊達藩領で、食文化に関していうと、岩手県南は餅。一方お米が取れにくい県北部はわんこそばに代表される「そば食」文化と同じ岩手県でも食文化が分かれています。
そして、もともと郷土食だった餅を食べるという行為を、一つの型に磨きあげたのはあの伊達政宗公。食べ方や所作といったマナーは「小笠原流」、お料理の調理法やメニュー開発は「四条流庖丁道」を取り入れ、冠婚葬祭などの儀礼の際に振舞われる「もち食儀礼」が生まれました。

もち御膳全景

もち本膳は礼にはじまり、礼に終わる。
食べる前に今日のもち本膳について安倍さんの口上があります。

お膳の上に並んだお餅たち。これらには食べる順番が決まっています。
(1)まず最初にお箸をつけるのは膾(なます)。大根おろしとお酢で喉の通りをよくする効果があるそうです。(2)次はなんと!あんこ餅。(3)続いて「料理餅」と呼ばれるしょうが汁に浸された餅。この料理餅はくるみやずんだになる場合もあります。(4)最後のお餅は「引菜餅」、この地方のお雑煮のような餅料理です。(5)最後にたくあん。それぞれのお椀をきれいに拭いながら、たくあんをいただきます。
この順番は、おいしく食べるという目的の他に、お腹の中での消化しやすさ、お寺のお坊さんたちが精進料理として食す際に、最後まで無駄なく器がきれいなままに保たれるように(最後たくあんで拭うところ)など、理にかなったお作法なのだそうです。

膾と香の物 あんこ餅 料理餅 説明

和食が世界文化遺産の無形遺産に選ばれたのは、
「多様で新鮮な食品とその持ち味の尊重」
「栄養バランスに優れた健康的な食生活」
「自然の美しさや季節の移ろいの表現」
「正月などの年中行事との密接な関わり」
(農林水産省ホームページより)
といった理由からなのだそうですが、この地方の餅食文化も立派にこの条件を備えています。
お餅は素朴な食べ物と思っていていましたが、こうして本格的にいただくと、また格別。ちょっと有名な料亭(行ったことないけど)の高級料理をいただいた気分(食べたことないけど)になりました。

お椀

そして、器はもちろん漆のお椀です。
平泉周辺は「秀衡塗(ひでひらぬり)」と呼ばれている漆器の産地です。
もともとこの地方で使われていた「秀衡椀(ひでひらわん)」と呼ばれる、おもてなし用の三つ重ね(ご飯、汁物、香の物の器で構成される3つで一揃いになったお椀セット)の器を、秀衡塗として復元。その後、秀衡塗は経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定されました。

身分の高い人や経済的に豊かな人が使っていた高級品をツールにもつ秀衡塗の器でいただく、世界無形文化遺産のもち本膳、となんとも贅沢な昼食に、少し緊張しながら喉につまらせることなく無事完食。そこにある食文化や器の由来や理由を一つ一つ確かめながらの楽しい昼食でした。

中尊寺の入り口

続いて向かうのは、世界文化遺産、中尊寺!

中尊寺ハスの池

先ほどお話に聞いた中尊寺ハスの池。見ごろは7月から8月中旬です。

三浦章興さん

こちらが中尊寺事務局管財部の三浦章興(みうらしょうこう)さんです。

中尊寺建立の理由は鎮魂と平和です。
中尊寺を建立したのは、奥州藤原氏初代の藤原清衡公です。
社寺を建立する際に「こんな理由で、こういう仏様やお堂をたてる!これを願う」と趣旨説明や意思表明の役割を持つ文書「中尊寺建立供養願文(こんりゅうくようがんもん)」によると、中尊寺は清原氏と東北地方一帯の覇を競った後三年の役で失われた多くの人々の魂を鎮め、これからこの国を平和にしていくぞという願いを込めて建てられました。

チケット

中尊寺に伝わる文化財・宝物を収蔵する「讃衡蔵(さんこうぞう)」を案内していただきます。

(写真提供:中尊寺)
まず最初にお参りするのは三体の仏様。いっぺんに御三体も。誠にもったいなくも有難いことです。
いずれも高さが同じで「丈六仏(じょうろくぶつ)と呼ばれています」。仏像が立ち上がった時の背の高さが「一丈六尺」だから丈六仏。
1丈は10尺なので、一丈六尺は「16尺」、1尺は30.3cmなので、この仏様たちの身長は4m85cmです。

それぞれの仏様の役割や違いについて教えてもらうことができました。
まずは真ん中の阿弥陀如来様から。阿弥陀如来は簡単にいうと(本当にざっくり簡単にいうと)仏様たちのお師匠様的な存在です。つまりあらゆる仏様たちのセンター。この阿弥陀如来はかつてのご本尊でもともとはここ讃衡蔵ではなく、本堂におわしました。現在は2013年に開眼された釈迦如来が中尊寺のご本尊となっています。

両側を固めるのは薬師如来。
向かって右側の薬師如来は峯薬師堂にいたので「峯薬師」と呼ばれます。右手の薬指が前に出ているのが薬師如来を示すポーズ。この手のポーズは「印(いん)」と行って、仏様の役割ごとに違っています。薬師如来は「施無畏印(せむいいん)」といって「畏れることはない、安心しなさい」という教えを表現しているのだそうです。何か持っているように見える左手は「与願印」と呼ばれ、薬壺を持つとされています。その名の通り、人々が願うものを与えようとすることを表現しています。ちなみに真ん中の阿弥陀如来の印は、瞑想中で心が安定している状態を示す「定印(じょういん)」です。

向かって左の仏様は、同じ薬師如来で、もともと閼伽堂という建物(現在は跡地のみ)に安置されていたので、まだ表面に金が貼られていないところや「螺髪(らほつ)」と呼ばれる仏様の丸まった髪の毛の加工が施されていないことから、補修途中であるとも考えられています。表面に金加工が施される前の黒くなっている部分に施されているのは、そう…漆です。黒漆の表面に金の箔押しという技法は、秀衡椀と共通。同じ技法を使いながら、美術作品として仏像へ、もう一方は工芸品である漆器として発展、今でも同時に見ることができるのはとても貴重だと思いました。

他にも、透かし彫りや立体的な浮彫りなど当時の職人の技術の高さが伝わる「華鬘(けまん)」や「磬架」などといった仏具・装飾具、多くの人にわかりやすく伝えるために仏教の世界観を絵に表し、細やかな経文の文字で描いた宝塔が美しい、「金字宝塔曼荼羅(きんじほうとうまんだら)」、美術的・宗教的価値の高い宝物の他にも、奥州藤原氏四代目、最後の当主である藤原泰衡の首を納めていた首桶など歴史的に貴重な遺物も収められています。現地でぜひ見学してみてくださいね。

さて、中尊寺の執事の方に案内してもらった、贅沢な中尊寺讃衡蔵の至宝見学も終了。
次はいよいよ中尊寺金色堂の見学へ。

ガイドさん

ここで平泉観光ガイドの向井さんにバトンタッチ。
中尊寺が世界文化遺産に指定されるはるか前、覚えてないくらい前からガイドしているのだとか。よろしくお願いします。

金色堂覆堂

おお!よく見るあの風景。中尊寺金色堂。
でも見えているのは、覆堂(おおいどう)と呼ばれる、金色堂を保護するための建物。これは1965年に作られた鉄筋コンクリート製で、この建物が金色堂を雨風からしっかり守ってくれています。

金色堂

(写真提供:中尊寺)
じゃじゃーん!これが金色堂だ
黄金に目が奪われてしまいましたが、そもそもこの建物は何のためかご存じのですか?
金色堂は初代藤原清衡公、二代基衡公、三代秀衡公のご遺体と四代泰衡公の首級(しゅきゅう)が納められている宗廟です。

初めて現地で見てみると、想像していたよりも華奢な印象(サイズは5.5m四方です)を受けましたが、見学の列に並び順番が来て正面でみると、感じるその力。建立から900年近く経った今見ても圧倒的なこの迫力というか「威」のようなものはやはり、「皆金色」と呼ばれる黄金の力なのでしょうか。

上下四方が金のこのお堂。なぜここまで徹底的に金にこだわったのか?建立した清衡公に尋ねる他ありませんが、願文にあったように平安への願いや仏様への畏怖や感謝の他にも、金の産出地であるこの平泉という土地や人々への思い、中央政府である京への対抗意識など、色々な思いが複雑に入り混じり昇華したような、強烈な意思とういうか圧のようなものを感じました。

この金色堂は1124年の建立で、幾度かの修復は重ねているものの、創建時から立つ唯一の遺構です。
黄金の力でついつい目が眩んでしまいそうになりますが、ズームしてみて装飾に目をやるとベースはやはり漆。表面には蒔絵や彫金などの技法が使われています。

他にも夜光貝の螺鈿細工、ちょっと見つけれらませんでしたが、象牙や宝石なども施されているそうです。つまり、ここで使われている漆は、表面のコーティングや装飾の他にも接着剤としての役割があったということ。縄文時代の遺跡からは、矢の鏃の接合部に漆で固め強度を増した遺品も出土しているそうで、漆が使われはじめた当初は装飾品というよりは接着剤としての役割の方が大きかったと考えられています。

修復するのも大変だった金色堂。
国宝建造物第一号で平安美術の最高峰、また世界文化遺産として知られているこの金色堂。実は今見ているこの姿が当時の姿だったかというと、まだ不明なところがたくさんあります。例えば、屋根に金箔が貼られていたかという問題。「屋根も黄金で覆われていたよ派」「いやいや屋根はきっと違うでしょ派」が何年も議論を重ねているそうですが、結論は出ていません。
また、金色堂は1890年に行われた「明治の修理」、1968年の「昭和の大修理」と幾度か修復を経験しています。大規模に行われた昭和の大修理では金色堂が丸ごと解体修理され、文献の研究が進み技術も向上していたため「修復のさらに修復」が行われたこともあったそうです。金や螺鈿などの精緻に施された細工を、文献を読み解き、一つ一つパズルのように行う修復は、気の遠くなる作業だったことでしょう。「黄金の永遠の輝き」と、文字では簡単に書けてしまいますが、やはり歴史の価値を守っていくためには、大変な時間と労力の積み重ねがいるのだな、と実感できた見学でした。

芭蕉さん2

金色堂を出ると、またまた登場の芭蕉さん!

旧覆堂

「五月雨の 降り残してや 光堂」(五月雨も降るのを避けたのではないだろうか!それくらい美しく輝いている!)と、芭蕉さんが詠むほどの美しさを称えた時の、金色堂は現在の場所ではなくすぐ側にある「旧覆堂(きゅうおおいどう)」の中にありました。

旧覆堂の中

この旧覆堂は、鎌倉期(1288年)に保護のため鎌倉将軍によって建てられた初代覆堂、それからいくつかの増改築を経て今も見ることができる旧覆堂へといくつかのアップデートを経ていて、現在の旧覆堂は室町期に建てられたもの。金色堂を保護するための建物自体も時間を重ね価値が高まり、貴重な遺産として重要文化財に指定されています。宝の存在が次の宝を作っていくなんて、なんだか面白い。

旧覆堂の中 途中

平日なのにたくさんの人が訪れています。

弁財天堂

弁財天堂におわすのは、

弁財天十五童子弁財天十五童子像。
マツコデラックスさんそっくり。映える〜♪と近頃話題なのです。

本堂

続いては本堂。釈迦如来がおわして、やはり丈六の坐像です。なんと堂内に上がって近くでお顔を見ることもできました。

釈迦如来 本堂の外 散歩

ガイドの向井さんと楽しくおしゃべりしながら山を歩く。

月見坂

「月見坂」と呼ばれる参道。今は高い木が生い茂る静謐な林ですが、秀衡さんの頃は美しい月を愛でることができたので、この名がついたのだそうです。

平泉の俯瞰

坂の途中で一休みして平泉のまちを上から見る。
右側に少し見える道路が遺跡を残すために当初の計画からルートを変更した平泉バイパス。
鉄塔の立つ奥が堤防で、東北本線の向こうに見える太い川が北上川。ちょうど線路と川の間の緑の広いエリアが秀衡公の本拠地だった柳之御所遺跡、夢の跡ですね。

散歩 記念写真

坂を下りると中尊寺の見学は終了。ガイドの向井さん、有難うございました!

なんだか観光気分で楽しくてたまらない、本当に漆の国いわてのツアー、このままでいいのでしょうか?

翁知屋

さて、つづいての見学先は、翁知屋(おおちや)さん。
昼食のもち本膳にも登場した「秀衡塗」の漆器を製作・販売するお店です。

佐々木さん

こちらが、代表取締役の佐々木優弥さん。翁知屋の三代目当主にして塗りの職人でもあります。
佐々木さんが翁知屋さんの成り立ちを話してくださいました。

セミナー風景

翁知屋の歴史は秀衡塗の歴史とそのまま重なります。
翁知屋のルーツはここ平泉町のお隣の旧衣川村増沢地区、現在の奥州市にあります。
もともと、この増沢集落は漆器製造が盛んな土地で、最盛期には40軒以上のお家が「増沢塗」という生活漆器の製造を生業にしていました。翁知屋の初代、優弥さんの祖父にあたる佐々木誠さんも代々漆器業を営む家に生まれました。誠さんは仙台国立工芸指導所漆工科を卒業した後、職人として家業に勤しむかたわら、平泉周辺の名家に散在する「秀衡椀」を研究、明治以降途切れていた秀衡椀を復元すべく、奔走します。1938年、増沢地区に民芸の父とも称される柳宗悦が訪れた際にも調査に参加、民芸運動家たちと交流しながら、秀衡椀の再建に情熱を注ぎ、ついに箔を貼る技法を開発、意匠の再現を果たします。

翁知屋の歴史

しかし、秀衡塗りの発祥地とも言われる増沢集落は昭和30年の増沢ダム建設に伴って解散。増沢集落の漆器製造者たちが近くの町に移動する中、誠さんはここ平泉の地に拠点を移し「翁知屋」として工房を開きました。屋号の「翁知」は増沢集落で、川と川が落ち合うところに佐々木家があり、集落で「オチアイさん」と呼ばれていたことに由来しています。その後、1968年には昭和天皇・皇后両陛下の御前で秀衡椀の製作実演も行うなど、秀衡椀の再建に貢献しました。

有職菱文様

「秀衡塗」は、6月から10月にかけ掻き取られた国産漆を原料に、じっくり乾燥させたブナやトチの木地をロクロがけし、下塗り・中塗り・上塗りという3段階の塗りを行う工程は他の産地の工程とほぼ同じですが、特徴的なのは絵付け。秀衡椀の金を贅沢に使う箔づけの技法をもとに「有職菱文様(ゆうそくひしもんよう)」と呼ばれる柄を加飾していきます。1985年に伝統工芸「秀衡塗」として指定されました。

工房を見学させてもらいます。

工房イメージ

道具がたくさん。

刷毛

ハケには女性の髪の毛が使われています。

部屋の中

上塗りの部屋はホコリが立たぬように、人はほとんど立ち入ることはできません。

漆風呂

塗り終わった漆を乾かす漆風呂。

喋る佐々木さん

優弥さんが強くこだわっているのは、経営をしながら職人としての誇りを持ち続けること。
「先代である自分の父親は、急に跡を継いだため、エンジニアから直接経営者になり、秀衡塗を修行することができなかった。新しい着想が生まれたとしても職人に伝えられなかったり、実現する方法にたどり着くことが大変だった。自分はものづくりをベースにした経営を行い、未来に秀衡塗を伝えたい」と優弥さん。

灯り

秀衡塗は、現在、翁知屋の三代目の優弥さんに受け継がれ、新しい動きが生まれています。

jodojapan

秀衡塗りの技術を使いながら、「日本らしさ・小さくて・かわいい」を意識したより自由でモダンな表現の新ブランド「JODO JAPAN」を開発、作品を発表しています。
JAPANは日本の他にも「漆」を表す言葉でもあり、「JODO」には浄土思想から始まった都市である平泉を表し、平和への想いも込められています。

髪結い

タンスのつまみの部分だけを作っている職人さんとのコラボで生まれた髪飾り「溜ゆい」

喋る

優弥さんの挑戦はまだまだ続く。
他にも、手業でしか表現できない技法で、求められたものをお客さんとともに生み出すオーダーメイドサービス「翁知屋 creative order」や、漆のある生活を思い出してもらうためのワークショップと塗り体験ができる「うるし塗り体験工房 kuras」など、ただ作って売るだけではなくあらゆる可能性を追いかけ続けています。

五感市

東北初、一関〜奥州エリアの工場が集うオープンファクトリー「五感市」の開催などなど。3代続く秀衡塗をさらに発展させ、新しい価値を生み出し続けています。

さよなら

お次は、国産漆のふるさと、県北の二戸市浄法寺へ移動!

さよなら

東北道を北へ、約2時間ほど。
さすが北海道に次ぐ面積第2位の岩手県、端から端まで移動するとその大きさを実感できます。

沈む太陽 天台の湯に到着

本日の宿、「天台の湯」に到着。
この施設の名前は、二戸市にある天台寺の住職を勤めていたあの瀬戸内寂聴さん(現在は名誉住職)が命名しました。

漆づくしの間.

瀬戸内寂聴さんお気に入りの漆尽くしのお部屋があります。
この部屋で執筆もされていたそうです。

3人

ツアー第一日目の最後のイベントはその名も「うるしびとトーク」!
司会は岩手県の人気者でマルチタレントの「ふじポン」さん。

塗師、漆掻き職人お二人のお話を聞きます。

小田島さん

こちらは塗師の小田島さん。
生まれも育ちも二戸市浄法寺。学校を卒業後仙台で別の仕事をしていましたが帰郷。
ちょうどその頃、二戸市と民間が共同出資し、うるし文化を多くの人に伝えるべく生まれた「滴生舎」というプロジェクトがスタート。「やってみる?」と誘われ急遽参加し、木地職人の修行をスタートしたのが今から15年ほど前。
その後、塗りにも挑戦し、触っていないのにかぶれてしまうほど苦手だった漆にも徐々に慣れ、現在はなんと7人のお弟子さんを持ち、指導する立場になりました。
工房では職人の皆さんのリーダー、また浄法寺の漆文化の情報発信担当として滴生舎を率いています。

小田島さん喋る

やってて楽しいことは何ですか?
「楽しいことはないけど、時々ゾーンに入ることがあります。今も塗りの作業は大変で集中しすぎて覚えていない。でも、楽しいことももちろんあります。それは作っている時じゃなくて、自分の塗った器なんかを買ってくれたお客さんが、また来てくれた時に『使ってみてすごいよかった』という声をいただくことがあります。その時がたまらなく楽しいです」

宝物のさじ

宝物は漆掻き職人さんからもらったこのさじ
小田島さんの思い出の品は、十数年前に漆掻き職人のおじさんにもらった、このさじです。
その職人さんは自分で漆を掻いて練って精製し、木地を彫って塗りまでやってしまう人。
実際に手に持ってみると、手にしっくりくる感じが最高で、今までのさじと全然違う。これください、とお願いしたところ「あげるけど、あんたも作り続けてね」と言われたのだとか。それ以来、このさじを目標にずっと作品を続けている小田島さん。
「さじを作ることもありますが、まだまだこれには追いつかない。でもこのさじのおかげで飾ってたり置いて眺めるのではなくて、使ってはじめて価値がわかる、ということに気づくことができたんです」

小さいさじが小田島さんを職人にして、そのお弟子さんにも連なってることに思いをいたすと、ものの持つ力が確かに存在するのだな、と強く感じました。

長島さん

続いてのお話は、長島まどかさん。漆掻き職人さんです。
埼玉県出身で、もともと広島県で熊野筆の職人をしていた長島さん。歴史が大好きでお城や甲冑も大好き。いわゆる歴女ってやつです。ある時、甲冑にも漆が使われているんだ、ということを知った長島さんは、二戸市の地域おこし協力隊に応募。採用され当地に着任しました。思いついたらすぐ動くタイプです。
現在は夜明けとともに山に入って漆掻き。熊に出会わぬようラジオをかけて漆を求めて山を歩き、お日様が沈むと家に戻る。雨の日は漆掻きができないのでおやすみ。といった生活を約1年半続けています。

喋る長島さん

漆掻き職人の一日の仕事、一年の過ごし方、掻き方や道具職人になってからの苦労話などなど(明日漆掻き現場の見学があるので、くわしくはそこで!)を聞いて印象に残ったのは、長島さんのカラリとした明るさ。
漆のふるさとここ浄法寺地区でさえ、掻き子(漆掻き職人のこと)の高齢化や後継者不足は、第一次産業や他の伝統産業同様、深刻な状況です。しかし、一日中一人で山にいても、たとえ仕事場に同年代の友人がいなくても、「めんこいねー」と漆の木に話しかけながら、漆の滴を取り続ける。いったい何がこの若い女性を突き動かしているのでしょう。

うるしびと

楽しくも熱い漆トークショーは終了し、うるしびととともに交流会(という名の宴)へ。

乾杯 夕食

いろんな話をしながら、浄法寺の夜は更けていくのでした。

漆の国いわて縦断ツアーレポート後編「若き漆掻き職人と品評会、漆のふるさと浄法寺へ」と続く。

【詳細情報】

平泉文化遺産センター

住所:岩手県平泉町平泉字花立44
電話番号:0191-46-4012
URL:http://hiraizumi.or.jp/archive/sightseeing/bunka.html

平泉レストハウス

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字坂下10-7
電話番号:0191-46-2011
URL:http://www.hiraizumi2011.jp/
※通常「秀衡塗」でのお食事は、提供しておりません。

中尊寺

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
電話番号:0191-46-2211
URL:http://www.chusonji.or.jp/index.html

翁知屋(おおちや)

住所:岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関1-7
電話番号:0191-46-2306
URL:http://www.ootiya.com/

稲庭交流センター 天台の湯

住所:岩手県二戸市浄法寺町野黒沢133-1
電話番号:0195-38-3222
URL:http://ninohe-kanko.com/kanko_spot/2155 
※通常「浄法寺漆器」でのお食事は提供しておりませんので、お問い合わせください。

浄法寺歴史民俗資料館

住所:岩手県二戸市浄法寺町御山久保35
電話番号:0195-38-3464
URL:http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/j-index.html

かつら庵

住所:岩手県二戸市浄法寺町御山中前田23-8
電話番号:0195-38-2125

滴生舎

住所:二戸市浄法寺町御山中前田23-6
電話番号:0195-38-2511
URL:http://urushi-joboji.com/

瀬戸内寂聴記念館・漆絵皿展示室(二戸市役所浄法寺総合支所内)

住所:岩手県二戸市浄法寺町下前田37-4
電話番号:0195-38-2211

桂泉(かつらしみず)

住所:岩手県二戸市浄法寺町漆沢中前田216
電話番号:0195-38-3514

tricolabo(トリコラボ)

住所:岩手県二戸市石切所森合68 カシオペアメッセ・なにゃーと3F
電話番号:0195-23-7210
URL:https://www.facebook.com/tricolabo/

(text:西村 photo:市岡)

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